北越コーポレーションを
お伺いする機会を頂きました!
新潟県長岡市を発祥とする
製紙メーカーには
いったいどんな秘話が
隠れているのだろう?
是非色々な話を聞いてみたい!
北越コーポレーション株式会社
出版部出版担当課長 宮田宏二さん
出版部営業担当 岡田拓也さん
を訪問しお話をお伺いしました。
宜しくお願い致します。
まずは北越製紙(現在は北越コーポレーション)としての歴史について教えてください。
創業時
北越製紙は地元の稲藁を原料とするボードを抄造する製紙会社として田村文四郎と覚張治平によって設立されました。
田村文四郎
長岡城下の紙商田村家に養子に入った酒井虎松(酒井家:長岡藩の蝋燭御用達)が田村家に養子入りして6代目田村文四郎を襲名した。
□明治20年代:行政文書や教科書などの出版向けに和紙需要が拡大し、文四郎は岐阜、愛知、山梨の和紙産地と直取引を開拓した。
□明治30年代:文四郎は西日本の和紙集散地である大阪を毎年訪れ取引展開した。周辺からは「北越将軍」と呼ばれたそうだ。
□明治40年代:新潟~長岡~直江津、東京や横浜とも鉄道でつながり物流網が広がるとともに、洋紙の用途が新聞・雑誌・教科書・書籍・マッチ・煙草の包み紙などへと普及し、急増した洋紙需要で田村屋は成長を遂げた。
中井商店、服部商店、柏原洋紙店、大倉洋紙店、博進社など有力洋紙商と取引関係を構築した。
覚張治平
長岡 表町3丁目に店を張る骨董商兼書籍商「上田屋」の次男、覚張儀七。7代目覚張治平を襲名し、書籍や雑誌が急速に普及する中で骨董商を廃業させ、書籍商専業とした。
□ 明治38年 :事業拡大を図る中で1県に1か所割り当てられる小学校教科書の特約販売権に注目し、治平は県内の書籍商、目黒十郎と西村六平とともに北越書館を合資会社として設立した。
田村文四郎は製紙業を始めるための理由といして次の3点を挙げている。
①印刷・出版業の発展で洋紙需要が拡大し、新潟には関西や東京から供給されている。洋紙がもたらす利益を他県に握られている。製紙業を起こせば県内需要だけでなく交通機関の発展が進むにつれて全国各地に供給できる。
②米産地なので洋紙原料の稲藁が他地方の半額でいくらでも手に入る。製紙原料として使用できるボロ布も関西より3.4割安い。
③労働力、石炭、石油も安価で潤沢に確保できる
□明治39年:長岡銀行株主総会で田村は覚張に板紙製造の計画を打ち明けて協力を要請し、その場で快諾を得た。
□明治40年:新潟で初めての近代製紙業として長岡にて北越製紙株式会社を発足させた。
長岡1号機(板紙抄紙機)
2130mm幅円網式
スクリーン、ジョルダン:米国ブラック・クロウソン社製
ドライヤー21本
抄紙機主原動機は蒸気機関が一般的であった中、国内初の電動機(ドイツ シーメンス・シュッケルト社製)
開業70日目余の明治42年1月藁蒸解場にて火災全焼、その後球形蒸釜(地球釜)を導入
創業時にあった板紙メーカーは、富士製紙、東京板紙、西成製紙、岡山製紙、永進社、美作製紙、山陽板紙。
当時は北斗七星の表す星の中に北越製紙の起源であるボードの「B」が入ったデザインが社章でした。
戦後復興
昭和20年太平洋戦争終戦から昭和25年の戦後統制廃止、三白景気(三白とはセメント、紙、砂糖)に至っては、運よく戦災を免れることができた当社工場は紙の供給開始・増産できたこともあっていち早く戦後復興を遂げることができました。そのお陰で当社は地元からも成長企業として認められるようになりました。当時の北越社員と結婚すると「玉の輿」と言われたとか、社員旅行は列車と温泉旅館を貸し切ったとか、伝説が残っています。また技術習得を目的とした北越製紙高等学校明星学園を設立したり、昭和25年には当時北越製紙の社長田村文吉が第3次吉田内閣の郵政大臣兼電気通信大臣に就任したりと、教育から政治まで幅広い分野において北越製紙の名前が知れ渡る様になりました。
新潟地震
右肩上がりの成長を遂げてきた北越製紙ですが、1964年(昭和39年)に発生した新潟大地震によって状況が一変しました。新潟工場は大打撃を受け、壊滅状態となり、北越製紙の株価も大暴落しましたが、被害の無かった長岡工場、千葉県の市川工場による増産、収益増、そして復旧作業のあたった従業員の努力もあって新潟工場の再建を成し遂げることができました。
北越製紙にとって大震災からの復興としてシンボルになったのは 新潟6号機(現N-2号機)です。被災した6号機を従業員たちは懸命な復旧作業を行い、なんと地震発生から約2ヶ後に通紙させました。その後改造移設を経て新2号機(N-2号機)として生まれ変わりました。火の中をくぐり抜け、再生を果たしたことから、この新2号機は復興のシンボルとして「フェニックスマシン」と呼ばれるようになりました。
新潟6号機(現N-2号機:フェニックスマシン)
1964年に発生した新潟地震により新潟工場は壊滅的な被害を受けました。5日前に大規模な予算を投じて新聞用紙から上・中質紙への転抄改造工事を終えたばかりの6号機が一瞬にして大打撃を被りました。さらにその他の機械(2号機、3号機、5号機、7号機)は修復不可能な状況でした。
しかし復旧に携わった従業員たちは6号機を一度解体し、傾いた建物の中で再度水平に設置し、応急的な処置を施し、短期間で通紙を成功させました。紙がでた瞬間に涙がポロポロと流れたそうです。
6号機は落ち込んだ生産力を少しでも回復させるため上質紙、感光紙原紙をフル稼働で抄紙しました。そして6号機は1966年に業界最高水準の計装化を図るための改造工事が施され、新2号機(N-2号機)として復活を遂げました。
北越製紙と出版用紙
北越製紙と出版との関りはいつごろからですか?
ボード製造からスタートした北越製紙ですが、大正5年から新潟工場で中質印刷紙を抄造し始めました。書籍用更や新聞更を抄紙していました。市川工場では「白象」「天女」「スター」「山鳥」が出版用紙として使用されていました。都心近郊の工場という利点に加え、市川工場2号機から産み出されれる独特な嵩高紙は、単行本や上製本向け用紙として好まれました。
現在も市川工場で書籍用紙などを抄紙しているのですか?
今後は書籍用紙はじめ出版向けの本文用紙の製造は新潟工場が基幹工場となります。新潟工場N-3号機では新しい出版用嵩高紙も産み出しています。
N-3号機の特徴はなんですか?
N-3号機はゲートロールコーターがオンライン上に設置されているので微塗工紙を抄紙できます。 また嵩高紙も得意な機械です。N-3号機が産み出す微塗工紙は、上質よりも嵩高な上に印刷仕上がりが良く、A2コートよりも光沢感を抑えた上品さを表現できます。N-3号機品はイラストが重視される絵本などにおいて、優しい風合いに仕上がるところに高い評価を頂いています。
N-3号機
新潟地震の被災により廃棄が決定した新潟工場2号機、5号機の代替として1965年に新3号機(N-3号機)が新設されました。地震後の復旧過程の中で立ち上がった新3号機には特別な想いがあったようです。そしてこの新3号機にはドライヤー中間部に印刷適正、筆記適正を向上させるためのゲートロール式サイズプレスが設置されました。ゲートロール式サイズプレスでは紙表面に高濃度の塗布液が塗工膜として残ります。いわゆる微塗工紙で非塗工紙に比べ格段に印刷適正が向上しました。
出版部ってどんな仕事?
出版部のお仕事について教えてください。出版社からはどういった紙が求められますか?
どういう出版物なのか、本によって求められる紙質は様々です。本を造る事はその本のイメージを具現化させる事なので、色々なニーズがあります。紙色や手触り、紙のコシとか。その本の専用紙というのも多いですよ。
日本の製紙メーカーはクライアントの細かなニーズに応えてきた実績がありますよね。 西日本と東日本で紙色を少し変えてみたりとか(笑)。それこそ世界にあまり類を見ない日本の製紙メーカーの特徴だと思います。細かなニーズに対応することで生産効率性が悪くなってしまうなんてアメリカの製紙メーカーでは全く考えられないでしょうね(笑)。
90年半ばあたりまで出版発行部数は右肩上がりに成長し続けました。したがって色々な紙のニーズに応えることで、次の仕事に繋がっていったんですね。だけど今はどうやって多品種の紙を集約しながらもニーズに応えていけるかという問題に直面しています。
僕たちは銘柄が無くなっていくことに寂しさを感じますが、紙需要が減少している現状では、過去の経緯に捕らわれずに生き残っていく手段を考える必要がありますよね。
岡田さんは出版部として普段はどういったお仕事をされてるんですか?
出版社のニーズを調査しています。また、クライアント様の希望を工場へ伝えたり、生産スケジュールを調整したりしています。
北越製紙の出版部の特徴はなんですか?
北越製紙の出版部営業の特徴は品種別営業だったんですよ。私は嵩高微塗工担当の部署に配属されました。
品種別で営業部門が分かれているって珍しいですよね。
2022年3月までは品種別だったんですが、今は業態別に変わわっています。それまでは抄紙機ごとに営業が就いていたんです。
その優位なところは、クライアント様と製造との距離の近さです。営業→受注管理→工場→生産管理→抄紙機が一般的ですが、北越製紙の営業の特徴は営業→抄紙機でした。
レスポンスの速さが強みでした。
出版社様から受注すると、自分で工場へ生産指示を出しています。ですからリアルな情報を温度が冷めない状態で現場と共有できました。
そうなんです。距離は離れていても生産現場に臨場感のある情報を伝えることができます。
それはクライアントにとっても、製造側にとってもとても良い事ですよね。
しかし、塗工紙担当、微塗工担当、板紙担当がすべて分かれているのでお客様にはご不便なところもあったようです。
あ~なるほど。確かに一括で色んな相談ができる担当さんの方が便利ですね。品種別に分かれていたら誰に相談すればよいか分からない場合が発生しますね。
そうなんです。したがって出版部が社内で先駆けて業態別担当となりました。本文用紙、付録で使用される板紙など本にまつわる紙なら何でもお伺いする営業形態に変わりました。
また出版業界において女性があらゆる部署で活躍されているように、弊社出版部においても女性の総合職採用が始まりました。
最近、岡田さんが取り組んだお仕事で印象的な事はありますか?
フィギュアスケートの某選手が北京オリンピックの代表入りを決めたときにある出版社から特集ムックを発刊したい、との相談を受けました。発刊スケジュールがタイトであった為、他メーカーでは紙の調達が難しかったようです。そこで工場と生産スケジュールを相談し、ミューコートEXを供給することができました。
それはまさに出版担当営業と抄紙機の距離の近さが成しえた成果ですよね!
岡田が無理やり工場の生産枠を広げんたんですよ(笑)
全員:ꉂꉂ(ᵔᗜᵔ* )アハハʷʷʷ
岡田さんにとって出版担当営業としてのやりがいは何ですか?
本屋さんへ行くと、自分が携わった仕事が出版物という作品として手に取って見ることができるのが、この仕事をしてて良いなと感じるところです。
なるほど。物として触れることができるというのは、自分の仕事の成果を感じやすいですよね。
最近はWeb媒体での連載からスタートして、紙媒体の出版物へと展開するケースが見受けられます。その際に「おめでとうございます」という言葉が交わされいるのを目にしました。作家さんにとっても紙として形になるということは意義があることなんでしょうね。
紙の価値を信じている僕達としては、その感覚はとても有難いですね。
これから先も色々なものが電子化されますが、紙媒体の価値に帰るものも多いと思っています。ですから出版部としてはまだまだやるべきことが沢山あると思っています。
これからの北越コーポレーション出版部
出版業界において北越は今後どういった計画をされてますか?
新刊での採用を増やしたいと思っています。その中で一番大事なのは出版社様から信頼される関係を築くことです。我々の出版営業は改めてそのことを大事にしながら、出版業界のニーズに応えていきたいと思っています。
このコロナ禍を経て本の需要が高まったこともあって、出版社からの問い合わせなども増えたのではないですか?
そうですね。様々なお問い合わせに真摯に対応することが良好な関係づくりに繋がります。そして最近は装丁に携わる若いデザイナーさん達からも問い合わせが増えてきました。
そういった装丁家さん達との新しい出会いも次に繋がるきっかけになりますよね。ただ、一方では製紙メーカーとしては銘柄を集約させつつ生産性を上げていかなければなりませんよね。個性の追求と銘柄集約は相反していて、出版部営業としては板挟みではないですか?
いえ、そうとも限りません。出版社様としてもあまりにも個性的な紙を使って、いざ再販となったときにすぐに紙が調達できない状況では販売チャンスを逃してしまします。したがって、急遽再販が決定してもしっかりと供給できる体制を築いておくことも製紙メーカーの責任のひとつなんです。また、帯やカバーに多種多様な加工を施して個性的な表現をする、というのもここ最近の傾向にあります。
なるほど。そのためにも北越は製造集約化など進めていってるわけですね。
しっかり紙を造ってしっかり売って行こう、というのがこれからの北越の方針です。開拓・開発すべきところ、生産形態の見直すべきところ、これらに取り組んでしっかりと販売していくというのが目下の方針です。
分かります。でも、僕自身もこの紙離れの状況下で紙の販売している立場で申し上げると、「しっかり売っていこう!」というのはなかなか難しいっすよねエ~ (笑) 、販売の数字を伸ばせって言われてもねエ~(笑)
そのあたりは若い方々で考えて頂いて<岡田さんの方を見る>ね? (笑)
全員:ꉂꉂ(ᵔᗜᵔ* )アハハʷʷʷ
ほら、あのSNSとかさ、使って頂いて <岡田さんの方を見る>ね? (笑)
全員:(爆)w ‘`,、(‘∀` ) ‘`,、’`,、(‘∀` ) ‘`,、w
ここからは北越コーポレーションの
代表的な出版用紙について
インタビューした内容を
お伝えします。
それぞれの紙はどうやって産み出されたのか
興味津々です!
画王
営業担当:鈴木 収
開発担当:清水 春一
命名者:大野 裕次郎
画王は「画学紙の王様になろう!」というスローガンの元で開発され、それに倣って「画王」と命名されました。 元々は市川工場2号機(2009年停機)で製造されていましたが、さらなる品質向上を図り新潟2号機で抄造されるようになりました。
「画王」はラフさと手触りに特徴があります。非塗工で、イラストの印刷仕上りはスケッチブックに描かれたような風合いがあります。
イラストはコントラスの効いた仕上がりになります。また紙のコシもしっかりあって、就学前の小さな子供たち向けの絵本用紙として高い評価を頂いています。
なるほど。小さな子供達でも本をめくりやすい、ということですね。
そうなんです。さらに描き心地が良くて塗り絵にも最適です。本来、画用紙と言われる紙は水彩がうまく滲むように表面強度を弱くしているのですが、「画王」は印刷できる画用紙なんです。特に新潟工場品になってその面で飛躍的に品質向上しました。
印刷できる画用紙ってとてもいいですね!
ハミング
営業担当:山崎 正春
開発担当:下越 典彦
命名者:山崎 正春さんの奥様
嵩高微塗工紙のハミングについて教えてください。
ハミングは新潟N-3号機によって1988年(昭和63年)に生まれました。 ハミングの開発に携わったのは営業担当:山崎、開発担当:下越でした。
1988年ということは34年(2022年インタビュー時)も続いてる紙なんですね!ハミングはどういう面で評価されていますか?
ハミングには独特の印刷上りの風合いの良さがある、とよく言われます。今でこそスノーフォース、ライトフォースなどといった弟分の紙がありますが、今だ絵本など用途でハミングの指定を頂く事が多いです。
ハミングの触り心地が良いと言われます。幼い子供達が本から感じる触感は絵本にとって大事な要素のひとつだそうです。ですから発刊当時よりずっとハミングを使い続けて頂いている作品なども多くあります。
ハミングってとても優しい紙なんですね~
そんな優しいハミングは実は営業担当の山崎の奥様によって命名されました。
え!?山崎さんのオクサマが!?
そうなんです。山崎が家に帰って「新しい紙ができたんだけど名前どうしよっかな~」と奥様に話されたところ、奥様が某洗濯用柔軟剤を見ながら
「ハミングでいいんじゃない」と(笑)
(゚ε゚ )ブッ!! えええええええ!!
はじめは柔軟剤と区別するため「ハミング♪」と表記してました(笑)
ええええええ~「ハミング」に開発者の熱い想いが込められてるのかと。。。。
いえ。奥様のひらめきだけで命名されました(笑)
全員:ꉂꉂ(ᵔᗜᵔ* )アハハʷʷʷ
メヌエット シリーズ
営業担当:三笠 和夫
開発担当:小林 利典
命名者:伊藤 謙介
嵩高書籍用紙メヌエットについて教えてください。
メヌエット ライトクリームは新潟工場3号機で抄造されている書籍用紙です。 北越製紙独自の書籍用紙を追求すると課題にチャレンジして出来上がった紙です。
開発担当:小林と営業担当:三笠で企画されました。
メヌエットはどうやって命名されたんですか?
この紙の開発にあったては、書籍用紙の3大重要ポイント「軽やかなめくりやすさ」「文字が透けて見えない高い不透明度」「軽くて嵩高でしなやかな手触り」を追求しました。そして完璧なまでに調和のとれたこの紙は、3拍子の優雅な舞曲になぞらえて「メヌエット」と命名しました。
嵩高紙を抄紙する際に難しい点はありますか?
嵩高紙を抄造するうえで難しいところは、紙の表面強度をしっかり維持させておくことです。 実は手触りと嵩高を追求すると印刷適正が低下するという問題が潜んでいるんです。 書籍ではしっかりとインクが盛られる場所も出てきますので紙の表面が剝けてしまってはいけません。
嵩高でありながら紙面強度を持たすにはマシンの抄紙スピードにも気を付ける必要があります。また、一般紙よりも繊維の絡み方がフワッとしているので、抄紙の際に引っ張る力を強めると断紙してしまいます。何回もテストを行い、最適な抄紙技術を確立させていきます。
スノーフォース / ライトフォース
営業担当:郷 智行
スノーフォース開発担当:安藤 邦宏
ライトフォース開発担当:高済 和宏
命名者:稲垣 直紀
スノーフォース、ライトフォースについて教えてください
書籍以上に豊富な写真や挿絵で構成され、ビジュアルが重視された書籍「ムック」という形態が多く出版されるようになりました。そこで写真再現性が高いうえに、軽くて、めくり心地もしっかりとある紙が求められました。そこでスノーフォースが開発されました。
スノーフォースという名前は、新潟という雪深い地方から世界に向けて発信される熱い想いを表現したそうです。
ライトフォースはどうやって産まれたんですか?
ライトフォースは新潟工場3号機で生まれました。ムック本に使用する紙で、さらに手触り感と嵩高感がありながらも写真印刷適正も併せ持つ紙が欲しい、とのお声を頂いたのが開発のキッカケです。
そこでムック向け用紙として完成していたスノーフォースの技術をさらに発展させてライトフォースが産まれました。ライトは軽いという意味です。 ライトフォースに関しては開発初期の段階では嵩高感が足らなかったので、原料レシピから見直した経緯があります。
スライト
営業担当:中山 禮司
開発担当:宮内 宏長
命名者:岩井 俊樹
スライトは生まれも、育ちも長岡工場3号機です。「大人向け塗り絵」の本に採用されています。出版社様と 画材メーカー様と我々と一緒に開発しました。色鉛筆などの表現力や書き心地を最大限に重要視しました。
今や「大人向けの塗り絵」は大きなコンテストも開催されていますよね。
本当に毎年多くの塗り絵ファンの方々が応募されています。
100歳以上の方からの応募もありますよ。年配の方々から寄せられる「塗り絵をするのが楽しい」などのコメントを読むと、紙を作っている立場としてとても嬉しく思います。
自分なりの色を塗るという創作活動が人生の満足感に繋がっているんですね。
我々が作った紙がそういった場面でお役に立てれているなら、本当に有難いですね。
「クライアントと一緒に開発した」とのことですが、新しい紙はどういう工程を経て開発されるのですか?
新しい紙を共同開発するには、まずはどういう紙を求められているのかを営業担当がしっかりと聞き取ったうえで、開発担当と打ち合わせを行います。研究室でのテーブルテストや実機テストを繰り返し、その都度クライアント様と品質チェックを行います。そして原料や製造工程の改善を積み重ねながら求める品質の製造実現性を図っているんです。
ひとつの新しい紙を産み出すには営業、研究、工場が一体となって取り組んでるんですね。
ざっくばらんな話もあり、工場と本社の距離を感じないそうです。
新製品開発に取り組まれているそうです。
新しい紙を抄く為の技術を産み出しているそうです。
北越コーポレーションのインタビューを通じて
お二人から感じたことは
□積み上げられた魅力的な人間力
□大企業でありながら そう感じさせない企業風土
□営業と現場とのコミュニケーション力
□仕事に直結している尽きない好奇心
でした。
出版のお手伝いをするという仕事に対して、
企業力以上に担当者個人の力に
自負を持って取り組んでおられる様子を伺い、
プロフェッショナルを感じました。
また、新規ビジネスへの挑戦や社員育成の話では、
これまでの取り組みや、
現状抱えている課題などについても
色々とフランクにお話頂きました。
その様子にトップダウンではなく
現場で解決しようとする積極性を
うかがい知ることができました。
開発秘話や製造現場のお話を色々と教えて頂き、
お二人から紹介頂いた出版用紙に
とても愛着を感じるようになりました。
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